弁護人は、ダイヤモンドのすべての面がよくみえるように、光の下でこれをゆっくりとまわして見せる宝石商ではありません。弁護人は、いわば宝石を固定してその一面だけをきわ立たせようとするのです。依頼者がおちいった人生の一角から見たとき事件の呈する様相を、利害関係者に見えるとおりに、裁判官や陪審が当事者の目で見ることを助けるのが、弁護人の仕事なのです。
(ロン・L・フラー「当事者主義」平野龍一 訳)[1]
裁判所は、紛争を解決したり、刑罰を科すための判断をするところです。この判断は、事実を認定し、その事実を法律に当てはめて適用することによっておこなわれます。
ここで、使うことになる法律というものは明確なかたちで存在するとは限りません。どの法律を適用するか、その法律の要件は何か、その要件がそろった場合にどのような効果が生じるのか、といったことは必ずしも条文にすべて書いてあるわけではありません。法律を使うにあたってその意味内容をはっきりさせる作業(法解釈)が必要です。
また、あてはめるべき事実も決まっていません。裁判官は神ならぬ人であり、あらかじめ真実をお見通しというわけではありません。証拠や証言といった資料にもとづいて後からおそらくこうだったのだろうと決めるわけです(事実認定)。
「実際に起った事実は、従って、2度屈折される—まず、証人によって、次には、事実を認定する責務のある人々によって」[2]。真相は「薮の中」[3]にあるといえます。
全く同じことは、行政活動についてもいえます。
行政は法律の執行として行われるものですので、行政官は、一方で根拠法令を解釈し、他方で事実を認定して、その事実を法令にあてはめて適用することにより自己の活動を導くのです[4]。たとえば、滞納処分の停止の一つの要件として「滞納処分をすることによってその生活を著しく窮迫させるおそれがあるとき」といえるのか[5]、医療法人設立認可の要件の一つとして「その業務を行うに必要な資産を有」するといえるのか[6]、といった事実です。
このとき認定される事実は、もっぱら申請者などが提出した書類資料による場合もあれば、これに加えて行政官が独自に調査・照会を行った結果による場合などもあります。
いずれにせよ、行政サービス(行政活動による利益)を受けたい市民の立場から光をあててその置かれた状況をきちんと示すことができるか、行政書士の腕の見せどころといえます。
脚注
- [1]ハロルド・J・パーマン編「アメリカ法のはなし」石川吉右衛門・伊藤正己・平野龍一・矢沢惇訳(有信堂、1963年)31頁以下。訳者自身による引用箇所の紹介としては、平野龍一「刑事訴訟法の基礎理論」(日本評論社、1964年)8頁
- [2]J.フランク「裁かれる裁判所・上」古賀正義訳(弘文堂、1960年)22頁以下
- [3]芥川龍之介「薮の中」1922年、黒澤明 監督映画「羅生門」1950年 参照
- [4]このことを明確に指摘するものとして、たとえば、南博方「行政手続と行政処分」(弘文堂、1980年)149頁 など。「〈行政処分においても〉やはり、まず事実認定を行ない、それから法令を解釈し、その認定事実を法令にあてはめて(包摂)、処分という行為が行われる。その意味では事実を認定し、法令を解釈適用し、判決という作用を下す司法の作用と変りはない。手続の精粗繁簡の差はあるが、司法判決と行政処分とは本質において変りはない。」
- [5]地方税法15条の7第1項2号,国税徴収法153条1項2号
- [6]医療法41条1項2項,44条1項,45条
【注記】この記事は開発者Tが以前に執筆したコラム・出版準備した書籍原稿からのものです。内容は当時の法令・制度等に基づくものであり、現時点での正確性を保証するものではありません。最新の情報は本AI行政コンパスのチャット画面等でご確認ください。